2021年3月31日水曜日

開業6年、休業1年・・・





春ですねぇ。桜が満開!

毎日が晴天で暖かく気持ちいいので、先日、久しぶりに目黒川と上野公園に行き花見をしてきましたよ。もちろん独りで、ですが。どちらの場にも、カラフルなビブスを着た見回りの集団が、大人数で固まって歩いていて、その矛盾と茶番劇っぷりに呆れましたわ〜



さてさて。

僕はこのブログにて、けっこう前から何度も「宿の再開日は2021年3月23日で!」と言い続けてきました。しかし・・・その日は、あっという間にやって来て、あっさりと通り過ぎ、、いまだ再開できておりません。

3月23日は、YAWP!backpackersのオープン記念日でしてね。僕はそれに合わせる形で、第二章ってな気分でリスタートしたい、という強い願望がありましたが。訪日外客数、先の2月は7400人だったそうですよ、奥さん(号泣)。1000〜2000人台だった昨年春に比べれば、まだマシですけどね。

インバウンド業界の回復の兆しが、全く見えません・・・。昨年3月〜の12ヶ月間で、訪日外客の総数はたったの41万人ですからねぇ。葛飾区の人口の方が多いじゃん(笑)。そもそも日本政府が目標としていた数値では、これは4000万人でしたから、なんと約百分の一ですよ。ニーズが百あると見込んで始めた商売が、一しかない状態に陥ったわけで。この“一”も、「仕事で~」や「家族が~」がほとんどでしょうから、純粋な旅行客数としてはゼロに等しいでしょう。こんなの、ど〜にもならんって。各々の経営者たちの努力や工夫で、どうにかなるレベルではない。手も足も出ずのお手上げ、勝ち目無し・・・


昨年春、5周年パーティをできなかった際に、「6周年こそはまた集まろうぜ!」という意気込みをサーメル(オープニングパーティに招いた友人fromヨルダン)あたりに伝えていたんですけどねぇ。“記念日を祝いたい”というよりも“旧友たちとまたみんなで飲みたい”の欲ですが。僕は結局、何を企画するわけでも誰かと会うわけでも、センチな発信をするわけでもなく、一切の何もせずで無風に通り過ぎました。

また、昨年は宿の営業を実質的には2月中旬に終えていましたが、3月は長期泊のフランス人青年が独りで泊まっていましたので、彼をもちろんゲストとしてカウントすると、完全にゲストがゼロになった日は4月1日でして。今日は3月31日ですから、これで丸一年、YAWP!backpackersはゲストをお迎えできていない、ということになります。正式に無期限休業を宣言したのは6月1日でしたけどね。4〜5月は緊急事態宣言があり、予約の受付を止めていましたので、休業宣言の前も事実上の休業状態でした。


ぅん〜・・・・一年ですか。ハァ。なんというか、“「俺は宿主だ!」というアイデンティティが薄まって行っている”こと、そしてそれを自覚していることに、僕はすごく切なくなります。正直に言いますと、ここしばらくの僕は宿について、宿業界についてを、ほとんど考えておりません。館山ウィールズ☆ゲストハウスのヤシロさんなんて、いまだに“宿主”という目線をベースにブログ等のオモシロ発信をしているもんなぁ。タフやなぁ〜。

館山ウィールズゲストハウス
意識低いゲストハウス(移転準備中)オーナーの業務日報


さらには、佐賀のみちしるべ2さんに至っては、業界データ分析を毎月の定期発信にしていらっしゃる(メチャクチャ参考になります)。これまたスゴい。

みちるべ2
元トヨタ期間工が田舎でゲストハウスを経営!日本でゲストハウスは馴染まないのか?


彼は、「GoToトラベルの恩恵は高級宿に偏った」という評に「んなこたぁない」と反論した星野佳路へ、明確なファクトデータを元に「あなた、間違ってるよ。実際に偏ってたよ」を突きつけ続けたりも。あれには「よくぞ言ってくれた!」と、気持ちが高揚しましたよ。




いやはや、日本全国の、まだまだ元気なゲストハウス主の皆さんたち、、素晴らしいです! 僕も決して“経営への気力がなくなった”わけではないのですが、業界分析までする気力は・・・(どうもすみません)。おかえりびとも、記事の更新がない状態のまま、もう二ヶ月以上(どうもすみません)。メンバーとはしばらく会っておらず、メッセージのやりとりも激減し。みんな、元気にしているのかなぁ・・。というか、ゲストハウス業界人とのやりとり自体が、以前よりも圧倒的に減りました。まぁ、ツイッターを月1〜2回の頻度でしか開かなくなってしまったので、簡単に言うと日本全国の宿主さん達の近況を、僕は知らんとです。



YAWP!backpackersは、開業6周年を静かに通り越し。休業期間は、ついに丸一年。宿主としてのアイデンティティも、宿業を通して知り合った方々との繋がりも、どんどん薄くなって行く。

なんか、ダメですね。しょんぼりしていても仕方ないんですけどね。


とはいえ、これまた以前に書いたように、僕は「無責任だが無気力ではない」人間です。実は僕は現在、新たなる起業への準備中です。宿業への熱が冷めつつある、のではなく、新規事業の方に脳内思考の比率が偏りまくっているのです。

そちらは、5月にオープンします!! よって以後の僕は、“純度100%のゲストハウスおじさん”ではなくなり、“いろんな事業に手を出しちゃう、痛いおじさん”になります。似たような道を歩み、成功者している先駆者たちの背中を追いかけるわい! ゲストハウスのみを必要最低限だけ開き孤独に枯れるつもりだった僕としては、それが理想の人生というわけではなかったけれども。寿司屋はやらんけれども。コインランドリーも、やらんけれども。


生きねばっ!!!






2021年3月18日木曜日

2011年、春。僕なりの物語。(②)




さてさて、前回の続きです。


東日本大震災における、およそ二週間の、僕の初めてのボランティア体験。別に、飽きたとか疲れたとかはありませんでしたが、僕は本職を退職ではなくあくまでも休職中でしたし、愛犬を実家に預けているし、、等々の理由から、一旦家に帰る決断をしまして。

最後の晩に、テント内での飲み会に参加したんですよ。飲み会は、毎日のようにどこかしらのテントでやっており、ボラ仲間同士で情報交換だけしておいて各自、気が向いたらテキトウに交じる、って感じでしたけどね。「被災地で飲み会とは不謹慎だ」とか憤る読者の方がいるかもしれませんが(いないか?)、ボランティア用のテント・エリアはもちろん避難所から離れていましたし、そもそも、現地の被災者の方たちもけっこうな頻度で参加しておりましたよ。


その、僕にとっての最終夜の飲み会には、互いに長期滞在で勝手知ったる気持ちのいいボラ仲間や、現地のオジさんたちが集まっておりましたが。その中で、静岡から来ていたカップルの彼氏さんの方(大吾くん)が、「俺たち、ここで結婚しちゃおうかな」と言い出しまして。

僕はそれを、酒の勢いでのジョークだと受け取りましたが、その場にいたオジさんたちは大盛り上がりで。僕は次の日に千葉に帰りましたが、それから数日後に、大吾くんから電話があり。「マジで結婚することになった(笑)。今月末に、この避難所で結婚式をするので来てよ!」とのこと。



僕は「それじゃあ、俺は映像撮影とウェルカムボードの制作を引き受けるぞい!」と伝えまして(実は僕は、イラストだけでなく、映像制作も元プロなんですよ~)。式の予定日は5月28日で、その頃には僕以外の長期メンバーもほとんどがすでに一度は去っていましたが、その日に現地で再集結することになりまして。再集結、といってもブランクはたったの二週間ですけどね(笑)。


実は、大吾くんと、かほこさん(彼女)は、ボランティア参加の初日が僕と被る、同期?なのです。配属されたチームも同じだったので、よく覚えています。第一印象は「ヤンチャそうだなぁ〜。元ヤンのカップルかな?」でしたが(笑)、最初は二人とも頼り無さげで、存在感も薄く。数日後に僕はチームを抜け本部の所属になりましたが(前回の記事)、彼は気が付いたらチームリーダーに。さらに、一週間を越えたあたりでは全体リーダーに昇格しておりまして。出世(ボランティア活動にそんな概念はありませんが)の勢いが、凄まじかったです。


そんなこんなで5月末。僕が、結婚式のために再び気仙沼に舞い戻ると・・大吾くん、なんだかオーラが違っていた!全体リーダーを三週間もやって、立場が人を作ったといいますか、すごく逞しくなっていた!! 彼らは僕とは違い、地元での仕事を辞めた上で被災地に駆けつけており、以後もそのままずっと現地でボランティア活動を続ける、とのこと。いやぁ、スゴいわ。カッコいいわ・・・


さて、結婚式当日。式場は避難所ですから、もちろん、ボランティアメンバーだけで企画して盛り上がるような、自分勝手なものではないです。むしろ、被災者の皆さんが積極的にいろいろを買って出てくれておりまして、彼らが主宰し、手作りし、それに僕らボランティア勢が参加するような形でした。

僕が撮った当日の映像は、編集しDVDにして後日、現地の方々やボランティア参加者に配布しました。

今回、この記事を書くにあたり、こちらを数年ぶりに見てみましたが、、いやぁ〜、自分で撮影&編集したくせに、改めて泣いてしまった(笑)!被災者の皆さんが、本当に嬉しそうで。本当に楽しそうで。僕は実際の式の最中にも、号泣しておりましたが・・・(撮影中は拭けないので顔がグシャグシャになった笑!)。友人の結婚式への参加は八度ほどありますが、それらでは泣いたことなんて一度も無いんだけどなぁ。

その結婚式のDVD映像は、このブログにも貼ろうかね〜、とトライしたのですが、1時間半もあるのでムリでした・・・。まぁ、そんな長い動画は、関係者以外は見ないでしょうしね。しかし、どなたかがYouTubeにUPした動画を発見したので、それをここにリンクさせちゃいます。短い(1分40秒)ですが、まぁ、雰囲気だけでも伝われば・・・




大吾くんと、かほこさんは、ボランティア集団“はまセン”の活動が終了した後も、地元静岡には戻らず、そのまま気仙沼で暮らし続けることを決断しました。僕と彼らが連絡を取り合っていたのは一年間くらいで、ここ九年は音沙汰無しですね。彼らは今でも気仙沼で、がんばって生活しているのかなぁ? 彼らのキャラ的には、子だくさんな家庭になっていそうだが・・・(笑)

僕と毎日遊んでいた、明るく無邪気な現地の子ども達。被災の直後だというのに、“ボランティア”の名目で押し寄せた僕らを歓迎し、応援し、支えてくれた現地の皆さん。そして僕と一緒に活動をしていた、日本全国から集まった同志の方々。

あれから、10年が経ちましたね。皆さんの現在進行が、元気に幸せでいてくれたら、僕は嬉しいです。






2021年3月11日木曜日

2011年、春。僕なりの物語。(①)

 


3月11日ですね。東日本大震災から、今日でちょうど10年ですか。時間が過ぎるのは、本当に早いです・・・


別にここで変なアピールをするような意図はないのですが、10年前の当時、僕はボランティアとして主に、宮城県気仙沼市の小泉浜地区に出向いております。回数にすると、計五回。現地滞在で一番長かったものは、2011年4月28日〜5月10日の、二週間弱です。写真を撮っておりましたので、それを見れば簡単に確認できます。かの大震災は、多大な犠牲者を生んだ悲劇ですが、湿っぽく語るのは僕には向いていないため、このブログでは単純かつ素直に、僕のボランティア活動の記憶を辿ります。

最初の訪問の機会が、最長の滞在です。僕には「人助けしたい」というような念は全くなく、簡単に言うと「現地で何が起きたか、起きているのかを、自分の眼で見るべきだ」という意志が元での行動でした。完全に自分のため(成長のため?でもない)であり、自分に芽生えた“知りたい欲”に、素直に従っただけです。なので、「ボランティアに駆けつけるボクを褒めて、認めて」的な承認欲求な要素は皆無です。そういう人、たくさんいましたけどね・・・


ボランティア界隈にはコネもツテも全くなかった僕は、勤務先に無期限で休みたいとの意向を伝え、事前情報ゼロのままとりあえず仙台へ出向き、情報収集をしました。4月28日というのは、ちょうど市町村の自治体が個人ボランティアを全国から受け入れ始めた時期で、しかし各自治体は人が殺到してコントロール不能になること恐れたのか、軒並み少人数の募集。仙台駅に特設された募集ブースでは、ほとんどが“満員のため募集終了”とあったのですが、亘理町というところだけがまだ募集している、とのことで。

というわけで亘理町に移動し、町役場でボランティア登録の申し込みをしようと試みましたが、結局そちらも満員で「NO」。宮城まで来て、何もせずにただ帰るのか、、とガクッとしていたところ、僕の後に断られていた青年から声をかけられ、「気仙沼の“はまセン”っていうグループの噂を聞いたのですが、ご存知ですか?」と。僕は全く知りませんでしたが、なにやら覚えがある気がして、仙台駅の募集ブースに急いで戻りまして。


そこで、明らかにオフィシャル(自治体による発信)ではなく怪しい感じで、「来るもの拒まず。連絡待つ。はまセン:090◯◯◯〜」的に書かれている極小の貼り紙を発見。僕はなんだかテンションが上がり(?)、即座に電話をかけました。その“はまセン”という名のグループは、当時、岐阜県議会議員だった川上哲也氏が立ち上げたもので、自治体の管理下にはない、例えるならば傭兵集団。発起人の川上氏ですらあくまでも個人的な参加であり、政治的なアレコレは全て排除。まずはボランティア活動のインフラ(寝床や風呂や食事)の整備に尽力し、希望者はどのような者であれ無制限で受け入れるスタンスを貫く、まさに“来るもの拒まず”を実現。キャラの濃ゆい人だらけで、いい意味でハチャメチャでしたが、すさまじく効率的で生産的な組織が、発足から一週間にしてすでに確立されていました。

僕は電話で指定された場所に出向き、簡易なボラ登録をして、最初の四日間は普通のイチ作業員でした。活動のメンバーは30代〜の男性がほとんどで、計200人くらいでしたかね。全国紙の新聞で取り上げられたりしたそうで、あっという間に周知度が上がり、ゴールデンウィーク終盤の5月5日の頃には老若男女が入り乱れ、日に1000人を越えておりましたが。活動内容は、基本的には津波の被害にあった民家の瓦礫撤去で、8時に朝礼があり9時〜夕方4時に作業。4時に本部に戻り、チームごとのリーダーによる報告と全体リーダーの総括や事務連絡を全員で受けた後は、各自が自由に特設の風呂に入ったりテントに籠ったり。持参したお酒を飲むのも普通でしたが、皆さんちゃんとしていて、パーティー的な大騒ぎは全くなかったですよ(当たり前ですが)。

僕が参加した初日。まだ少なかった


その本部は避難所内にありましたから、そこには被災した子ども達もたくさんおりまして。僕は、日中の作業で毎日ヘロヘロになっていましたが(笑)、夕方以降は積極的に子どもたちと関わり、一緒に遊んでおりました。僕の当時の本職は塾講師ですから、普段から子どもとばかり対峙していましたしね。

そんな折、ボラ四日目の夜に、僕は本部の者から呼ばれまして。「昼間の子ども達がヒマそうで気の毒だ。今後は瓦礫撤去には行かず本部所属となり、主には昼の間に子ども達と遊んでくれないか?」との依頼。撤去作業はマジでキツく、いつまで続けられるか(いつ心が折れるか)わからない状況でしたので、僕はもちろん快諾しまして。つまり、僕のこのボランティア活動では、中期〜後期の八日間には肉体労働を全くせず、ひたすら毎日、子ども達と遊んでいただけなのです!




話が逸れますが、僕のそんなボラ活動の日々の間には、とある有名女優さんや歌手の方の、個人でのボランティア参加もありました(お忍びだったので、ここにも名前は書きません)。また、日本全国から炊き出しの申し出があり、すごく美味しい、出来たての料理を何度もいただきました。その一方で、とある政治家が訪問に来た際には、大名行列のような感じで最初から鬱陶しく。労働は一切せず、そのくせ夕方の報告会では壇上に上がりマイクを握り、長々と“ねぎらい”?のお言葉&自分の功績アピール。さらには避難所内で被災者を呼び集め、自分が中央に立ち記念撮影。あの時、、多くのボラ参加者が怒り狂っていましたが、みんなよく耐えたわ! 俺はあいつをブン殴ろうか迷ったよ!!

思い出し怒り、のついでにもう一つ(笑)。はまセンは前述の通りに自治体の管理外にある組織でしたので、被災者への支援物資の供給は各自治体の紐付き団体に“振りまいた後”。頻度が明らかに他よりも少なく、たまに届いても、おにぎり等の食材は賞味期限切れが当たり前で、嫌がらせか?見捨てる気か?と疑ったくらいです。日本の政治って、ほんとロクでもない・・・


話は戻り。そんなわけで、東日本大震災における僕の初めて&最長のボランティア活動には、肉体労働の記憶はほとんどなく、覚えているのは被災した現地の方々との交流ばかりなのです。特に子ども達は、あの未曾有の大災害の後だというのに皆、天真爛漫で明るく、賑やかな毎日でした。僕が接していたのはほとんどが小学生でしたので、10年経った今頃は、成人を迎える前後でしょうか。元気にしているかなぁ?

また、ボランティア参加者のほとんどは一〜三日間の参加で、一週間を越える者は稀でしたので、僕と似たような長期のメンバーたちとは自然に関係が深まり、仲良くなりました。“絆”とかいったキラキラ方面の圧を押し付けて来る一部の者々のことは、僕は苦手でしたけどね(笑)。とある頃に、そんなキラ寄り連中がmixi上で、左手首にバッテンを書きそれを上に掲げ、後ろ向きで写真を撮り「オレらは仲間だ!」的な発信(漫画ワンピースのパクリ)をするのが流行ったんですよ。あれにはマジで、マジでドン引きした・・・



・・・以降もつらつらと当時の思い出話を書いている途中なのですが、あまり長くなるのもなんなので、一旦切って二回に分けますね。この続きである、次回の更新は、来週17日(水)を予定しております。