2021年3月11日木曜日

2011年、春。僕なりの物語。(①)

 


3月11日ですね。東日本大震災から、今日でちょうど10年ですか。時間が過ぎるのは、本当に早いです・・・


別にここで変なアピールをするような意図はないのですが、10年前の当時、僕はボランティアとして主に、宮城県気仙沼市の小泉浜地区に出向いております。回数にすると、計五回。現地滞在で一番長かったものは、2011年4月28日〜5月10日の、二週間弱です。写真を撮っておりましたので、それを見れば簡単に確認できます。かの大震災は、多大な犠牲者を生んだ悲劇ですが、湿っぽく語るのは僕には向いていないため、このブログでは単純かつ素直に、僕のボランティア活動の記憶を辿ります。

最初の訪問の機会が、最長の滞在です。僕には「人助けしたい」というような念は全くなく、簡単に言うと「現地で何が起きたか、起きているのかを、自分の眼で見るべきだ」という意志が元での行動でした。完全に自分のため(成長のため?でもない)であり、自分に芽生えた“知りたい欲”に、素直に従っただけです。なので、「ボランティアに駆けつけるボクを褒めて、認めて」的な承認欲求な要素は皆無です。そういう人、たくさんいましたけどね・・・


ボランティア界隈にはコネもツテも全くなかった僕は、勤務先に無期限で休みたいとの意向を伝え、事前情報ゼロのままとりあえず仙台へ出向き、情報収集をしました。4月28日というのは、ちょうど市町村の自治体が個人ボランティアを全国から受け入れ始めた時期で、しかし各自治体は人が殺到してコントロール不能になること恐れたのか、軒並み少人数の募集。仙台駅に特設された募集ブースでは、ほとんどが“満員のため募集終了”とあったのですが、亘理町というところだけがまだ募集している、とのことで。

というわけで亘理町に移動し、町役場でボランティア登録の申し込みをしようと試みましたが、結局そちらも満員で「NO」。宮城まで来て、何もせずにただ帰るのか、、とガクッとしていたところ、僕の後に断られていた青年から声をかけられ、「気仙沼の“はまセン”っていうグループの噂を聞いたのですが、ご存知ですか?」と。僕は全く知りませんでしたが、なにやら覚えがある気がして、仙台駅の募集ブースに急いで戻りまして。


そこで、明らかにオフィシャル(自治体による発信)ではなく怪しい感じで、「来るもの拒まず。連絡待つ。はまセン:090◯◯◯〜」的に書かれている極小の貼り紙を発見。僕はなんだかテンションが上がり(?)、即座に電話をかけました。その“はまセン”という名のグループは、当時、岐阜県議会議員だった川上哲也氏が立ち上げたもので、自治体の管理下にはない、例えるならば傭兵集団。発起人の川上氏ですらあくまでも個人的な参加であり、政治的なアレコレは全て排除。まずはボランティア活動のインフラ(寝床や風呂や食事)の整備に尽力し、希望者はどのような者であれ無制限で受け入れるスタンスを貫く、まさに“来るもの拒まず”を実現。キャラの濃ゆい人だらけで、いい意味でハチャメチャでしたが、すさまじく効率的で生産的な組織が、発足から一週間にしてすでに確立されていました。

僕は電話で指定された場所に出向き、簡易なボラ登録をして、最初の四日間は普通のイチ作業員でした。活動のメンバーは30代〜の男性がほとんどで、計200人くらいでしたかね。全国紙の新聞で取り上げられたりしたそうで、あっという間に周知度が上がり、ゴールデンウィーク終盤の5月5日の頃には老若男女が入り乱れ、日に1000人を越えておりましたが。活動内容は、基本的には津波の被害にあった民家の瓦礫撤去で、8時に朝礼があり9時〜夕方4時に作業。4時に本部に戻り、チームごとのリーダーによる報告と全体リーダーの総括や事務連絡を全員で受けた後は、各自が自由に特設の風呂に入ったりテントに籠ったり。持参したお酒を飲むのも普通でしたが、皆さんちゃんとしていて、パーティー的な大騒ぎは全くなかったですよ(当たり前ですが)。

僕が参加した初日。まだ少なかった


その本部は避難所内にありましたから、そこには被災した子ども達もたくさんおりまして。僕は、日中の作業で毎日ヘロヘロになっていましたが(笑)、夕方以降は積極的に子どもたちと関わり、一緒に遊んでおりました。僕の当時の本職は塾講師ですから、普段から子どもとばかり対峙していましたしね。

そんな折、ボラ四日目の夜に、僕は本部の者から呼ばれまして。「昼間の子ども達がヒマそうで気の毒だ。今後は瓦礫撤去には行かず本部所属となり、主には昼の間に子ども達と遊んでくれないか?」との依頼。撤去作業はマジでキツく、いつまで続けられるか(いつ心が折れるか)わからない状況でしたので、僕はもちろん快諾しまして。つまり、僕のこのボランティア活動では、中期〜後期の八日間には肉体労働を全くせず、ひたすら毎日、子ども達と遊んでいただけなのです!




話が逸れますが、僕のそんなボラ活動の日々の間には、とある有名女優さんや歌手の方の、個人でのボランティア参加もありました(お忍びだったので、ここにも名前は書きません)。また、日本全国から炊き出しの申し出があり、すごく美味しい、出来たての料理を何度もいただきました。その一方で、とある政治家が訪問に来た際には、大名行列のような感じで最初から鬱陶しく。労働は一切せず、そのくせ夕方の報告会では壇上に上がりマイクを握り、長々と“ねぎらい”?のお言葉&自分の功績アピール。さらには避難所内で被災者を呼び集め、自分が中央に立ち記念撮影。あの時、、多くのボラ参加者が怒り狂っていましたが、みんなよく耐えたわ! 俺はあいつをブン殴ろうか迷ったよ!!

思い出し怒り、のついでにもう一つ(笑)。はまセンは前述の通りに自治体の管理外にある組織でしたので、被災者への支援物資の供給は各自治体の紐付き団体に“振りまいた後”。頻度が明らかに他よりも少なく、たまに届いても、おにぎり等の食材は賞味期限切れが当たり前で、嫌がらせか?見捨てる気か?と疑ったくらいです。日本の政治って、ほんとロクでもない・・・


話は戻り。そんなわけで、東日本大震災における僕の初めて&最長のボランティア活動には、肉体労働の記憶はほとんどなく、覚えているのは被災した現地の方々との交流ばかりなのです。特に子ども達は、あの未曾有の大災害の後だというのに皆、天真爛漫で明るく、賑やかな毎日でした。僕が接していたのはほとんどが小学生でしたので、10年経った今頃は、成人を迎える前後でしょうか。元気にしているかなぁ?

また、ボランティア参加者のほとんどは一〜三日間の参加で、一週間を越える者は稀でしたので、僕と似たような長期のメンバーたちとは自然に関係が深まり、仲良くなりました。“絆”とかいったキラキラ方面の圧を押し付けて来る一部の者々のことは、僕は苦手でしたけどね(笑)。とある頃に、そんなキラ寄り連中がmixi上で、左手首にバッテンを書きそれを上に掲げ、後ろ向きで写真を撮り「オレらは仲間だ!」的な発信(漫画ワンピースのパクリ)をするのが流行ったんですよ。あれにはマジで、マジでドン引きした・・・



・・・以降もつらつらと当時の思い出話を書いている途中なのですが、あまり長くなるのもなんなので、一旦切って二回に分けますね。この続きである、次回の更新は、来週17日(水)を予定しております。







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